その2 羽田の警備員からフィリピン、ハワイを経て、コンテンツ業界のベンチャーへ
2週間でクビになった理由はシンプルで、2日間体調を崩して休んだから。体調回復後、会社に出社した際、席に着く間もなく社長室に呼び出され、クビであることを伝えられました。その際の社長のセリフは未だに記憶に残っております、「中小なんてこんなものだから」。
実家に帰り、「クビになった」と告げた際の母親の顔は、中々こみ上げるものがあったとだけお伝えしておきます。
こんなにも早く職を失うとは思っておらず、かといって心理的なダメージも大きく、すぐさま働く気も起きず、気がつけば秋から冬になり、年を越し、いよいよもってこのままじゃマズイぞと思った矢先にテレビに映ったホノルルマラソンの特番。唐突に「これをやろう」と決めました。そこに理由はなく、寒空の下、部屋にあった運動着と使い古したスニカーで走り出したのを覚えています。
ホノルルマラソンまでには約1年の時間があり、時間はいくらでもある。どうにか面白いことは出来ないかなと、英語をしゃべれたら楽しいのではないかとひらめき、当時流行りはじめたフィリピン留学を決意。ホテル(4人部屋ですが)と1日3食が付き、ほぼマンツーマンのレッスンが1日8時間あり、月7万円という破格の値段が決め手となり、フィリピン第三の都市・ダバオにある学校に英語を学びに行くことにしました。
リクルート在職中にためていたお金はあるものの、できるだけ手を付けたくなかった自分はフィリピンに発つ前にアルバイトをして、学費分くらいは稼ごうと考えた結果、当時流行っていた某掲示板にて安価するという方法で、警備員をすることに決定。どうせなら面白い場所で、と当時まだ工事中だった羽田空港内の深夜警備を担当することに。自分のおじいちゃんと同じくらいの歳の同僚とともに、空港内のいたるところで警備をするのですが、やることは基本立っていることだけ。白い壁に囲まれた部屋の中でひたすら考える時間が出来たので、毎日6〜8時間近く自分の人生について振り返り、今後の身の振り方について考えを巡らす日々となりました。
得られた結論としては、「どんな環境でも楽しめる人が最終的に強い」、「自分が面白そうだと思ったことにすぐ飛び込めるように身軽でいよう」でした。
そんなバイト生活も2ヶ月程度で終了し、初夏にフィリピンに渡ります。
フィリピンでは朝5時に起きて7時までランニング、朝食を済ませ、8時から18時まで昼食以外は全て英語のレッスン。夕食後2時間の自習時間後に再びジムで走って眠る、という日々を約半年繰り返しました。英語を勉強しに来たのだから、できるだけ上達して帰りたいと思い、休み時間もひたすら先生と話し、休日もランチをおごったりしながら出来る限り会話に付き合ってもらえるように暮らしました。
練習の甲斐もあって、ホノルルマラソンではサブ4(フルマラソン4時間切り)を達成することができました。
ハワイでは日本人のご家庭にホームステイさせてもらい、ホノルルマラソンを走ったあとは現地のコミュニティに顔を出し、はじめて白人の友だち(50歳前後)ができたり、スキューバダイビングのライセンスを取ってみたりしました。
その3 Tokyo Otaku Modeと出会い、アニメ業界の片隅で働き、そして退社
フィリピン留学中、日本に帰ってからの就職先をどうしようか考えており、今度こそコンテンツ業界に、という思いがありました。そんな中、ネットでたまたまTokyo Otaku Mode(以下TOM)関係者のブログを発見しました。その記事の文末には「興味があったら連絡して」というアドレスが記載されており、メールを送ったところ、当日「Skypeで話そう」と返信がありました。そのスピード感に驚いたのを覚えています。未だフィリピンに滞在中だったのですが、Skype越しにミーティングを行い、2012年年末まで試用期間とし、2013年に帰国してから再度直接面談ののち、問題ないなら本格的に働くという形になりました。
帰国した後、正式な稼働が決まり働きはじめるのですが、業務内容はまったくの未経験の「海外EC事業の立ち上げ」でした。
当時20名程度のメンバーだったTOM内に、通販事業経験者およびコンテンツ業界経験者は誰もおらず、すべてが手探りでの立ち上げとなりました。詳細は省きますが、アニメやゲームに紐づく商品を海外に販売するためには複雑なライセンスの確認や、メーカーへの海外販売の許諾など、多数のハードルがあり、初心者が行うにはかなり重たい事業でした。とはいえ、そういった一つの商品に関わる複数の企業へご相談に伺うことによって、今まで一消費者としてしか関わることができなかったコンテンツ業界の多くの方々にお会いすることができました。
その流れの中で扱わせていただく商品点数が増え、販売規模も拡大。自然とチームの人数も膨らみました。
会社の規模感も大きくなり、連携すべきチームも増え、マネージメント業務も多くなる一方で、社外交渉の機会は減っていきます。リクルート時代、ほとんどマネージメント業務を経験しておらず、もともとプレイヤー気質だったこともあり、正直マネージャーとしてはポンコツで、チームのメンバーには本当にいろいろと迷惑・面倒をかけてしまったなと、いまだに当時を思い返しては、ただただ申し訳なく思う次第です。
そういった環境の変化と、コンテンツ業界でのつながりができたことを踏まえ、フリーランスとして他社の仕事も受けられるようにと、2015年9月末、個人事業主として働き方を切り替えました。個人事業主に切り替えたのちも昨年末に契約が切れるまでの2年間で、TOMではYouTubeチャンネルの運営、クラウドファンディング事業、商品企画など、これまた幅広い業種に携わらせていただきました。